リンマンブルース ゴールデンレトリバーの生態とマンガ

エフとコメと私とef夫の日常。慎ましく逞しくなるべく楽しく暮らしています。

カテゴリ:

「9回目の命日」を書いた後、ブログの「母」カテゴリーを久しぶりに読み返していたら非公開のままの記事が1つありました。何故だか当時は公開する気持ちになれなかったようです。今ならもう全然大丈夫。こんな内容でした。→ 「料理」 ... 続きを読む
「9回目の命日」を書いた後、ブログの「母」カテゴリーを久しぶりに読み返していたら
非公開のままの記事が1つありました。

何故だか当時は公開する気持ちになれなかったようです。

今ならもう全然大丈夫。
こんな内容でした。→ 「料理」


昨日11月5日は母の命日でした。9年経ちました。エフと一緒にお墓参りに帰省しました。あいかわらず実家ではずーっとこの調子。足取りが軽い軽い。父と目が合うたびに立ち上がる。部屋には来月の個展に向けて新しい絵がたくさん。ひとりでゆっくりお墓参りに行きましたが、い ... 続きを読む
昨日11月5日は母の命日でした。9年経ちました。

エフと一緒にお墓参りに帰省しました。

あいかわらず実家ではずーっとこの調子。


足取りが軽い軽い。父と目が合うたびに立ち上がる。




部屋には来月の個展に向けて新しい絵がたくさん。



ひとりでゆっくりお墓参りに行きましたが、
いつものようにキレイに手入れをされていて掃除するところが見つからず。


エフが柿が好きだと聞いて庭の柿(渋抜き済み)をこんなに持たされた。


かわいいケーキも。蜜柑やキウイなどお土産たくさん。ありがとう。




母が亡くなって半年後に我が家にやってきたエフももうすぐ9歳になります。

エフは偉大です。いつもありがとう。


先日、戸棚の中の書類や本の整理をしていたef夫がなつかしいアルバムを出してきました。朝霧高原であげた結婚式のアルバム。末期の癌でこの式の2ヶ月後に逝ってしまう母が私のそばで笑っています。既に腰の骨に転移していて起き上がることも困難だった母がこの日のために脊 ... 続きを読む
先日、戸棚の中の書類や本の整理をしていたef夫がなつかしいアルバムを出してきました。

朝霧高原であげた結婚式のアルバム。

末期の癌でこの式の2ヶ月後に逝ってしまう母が私のそばで笑っています。
既に腰の骨に転移していて起き上がることも困難だった母が
この日のために脊椎固定の手術を受け、つらいリハビリを頑張って
なんとか少しの距離なら歩けるまでになったのでした。
そしてみんなの力を借りて車いすで参列してくれたのでした。終始笑っていました。

悲しくなってしまうのであまり見返すことのないアルバムです。

でも、改めて見ると本当にみんなが笑っていて幸せそうな写真ばかりの素敵なアルバムでした。
泣いてばかりいた日々の中でこの日だけは一日中笑っていられた結婚式でした。
眺めていたら自然とニコニコしてしまいました。


このアルバムはいつでも見られるように外に出しておくべきだと思い
戸棚の奥に再びしまうのをやめました。


エフの写真の横にも飾りました。

9年前の今日9月6日でした。


おかあさんに会いたいなぁ。







運転免許の更新のお知らせがきた。5年前、母が亡くなる2週間程前に更新手続きにいった免許証の写真は、びっくりするほどやつれた悲しい顔をしている。当時の私は緩和ケア病棟の病室にずっと泊まっていて、刻々と悪くなっていく容態にほとんど眠れず食べられずの日々を送っ ... 続きを読む
運転免許の更新のお知らせがきた。

5年前、母が亡くなる2週間程前に更新手続きにいった免許証の写真は、びっくりするほどやつれた悲しい顔をしている。
当時の私は緩和ケア病棟の病室にずっと泊まっていて、刻々と悪くなっていく容態にほとんど眠れず食べられずの日々を送っていた。
叔母と付き添いを交代して東京に戻った日にふらふらしながら更新に行ったことを覚えている。顔色悪く頬がこけ目が小さいぼーっとした写真。

看病していた1年半の間、東京と実家を往復する東名の車の中では、大体いつも運転しながらひとりで泣いていた。泣きすぎで目が小さくなってしまった。いつも鼻づまり声だった。

あれから5年経って、すっかり顔も丸く目も鼻も元に戻った。
新しい免許証の写真はむしろプッと笑ってしまうような顔で写るに違いない。
時は流れる。


それでもいまだにひとりで東名を走っていると色んなことが思い出されてついつい涙がこぼれてしまったりするのだけど、今年の命日は大丈夫だった。



なにせエフが嬉しそうで嬉しそうで。

東名に乗った時点で既にヘラヘラ、ずっとヘラヘラ。

富士インターを下りると立ち上がってしっぽふりふり。
自然と私もヘラヘラしてしまう。


しかし、
実家に到着して車を飛び降りて玄関にダッシュするも父がいなくて焦るエフ。


ぴーぴー泣きながら庭中走り回って探す。



どこ?



どこ?


どこ?


いないの?

すると車の音が。


はっ!

きたっ!


もーーー、どこ行ってたですかー!


荷物なら持ちますってばー!



お土産用にやきそばやらエフのおやつやらを買いに行っていた父。ありがとう。


エフ、やっと一安心。よかったね〜。


犬ってこんなにも嬉しそうな顔するんだって、
いつもなんだかじーんとしてしまうエフの表情。



もしも私がエフを残して死んでしまって、空の上からエフの様子を見ていたとして、毎日エフが泣きそうな顔してふさぎ込んでいたらきっと悲しくて悲しくてたまらないだろう。
私がいなくても楽しく明るく逞しく笑って暮らしていて欲しい。時々思い出して明るく空を見上げてくれたら嬉しい。いや、幸せな毎日を送っているのなら思い出してくれなくても全然いいよ。心底そう思う。

そんなこと改めて思った5回目の命日でした。
母よ、安心してくれているかな。


父が「お母さんの餃子はうまかったなぁ」と言ったので、張り切って餃子を作って一緒に食べたことがありました。…が、我ながらイマイチでした。母は料理が上手でした。手際よく品数多く彩り良くいつも美味しい食卓でした。それなのに、ほとんど料理を教わることなく死んでし ... 続きを読む
父が「お母さんの餃子はうまかったなぁ」と言ったので、
張り切って餃子を作って一緒に食べたことがありました。
…が、我ながらイマイチでした。


母は料理が上手でした。手際よく品数多く彩り良くいつも美味しい食卓でした。
それなのに、ほとんど料理を教わることなく死んでしまいました。


昔から実家は人が多く集まる場所で、そのたび大人数の食事を母が用意していましたが、今思い出しても本当にすごいなあと思います。

あの手際のよさ、どうやっていたんだろう。色んな料理をいつの間にか作って、ニコニコと会話しながら全体に気を配って。美味しいつまみに囲まれていつも父はみんなの中心で機嫌よく飲んでいました。私はほとんど手伝いもせずパクパク食べてばかりでした。

今は実家に帰ると私が食事の用意をしますが、バタバタしちゃって全然ダメです。(写真は昨年夏の実家、叔母たちが色々持ち寄ってくれました。)




母の具合が悪くなってから、食事を作るのが私の毎日の大きな任務になりました。

食欲が落ち、薬の副作用で味覚が敏感になった母が美味しく食べられる栄養バランスのいい食事を作ることはそれほど簡単ではありませんでした。
匂い・塩分・油分・化学調味料などあらゆるものに敏感になり、少しでも気になることがあると全く食べられません。一口食べただけで戻してしまうことも多くありました。
食べなければ体力が落ちる、でも食べられない、でも元気になりたいから食べたい、食べてほしい、、、、、本当に食事は毎日のビッグイベントでした。

それまで仕事ばかりで気ままな1人暮らしだった私が作る料理なんてまるで冴えなくて、実家の台所でひとり試行錯誤の毎日でした。
娘の作る料理を一生懸命食べようとしてくれた母が、気を遣わずに美味しいと言ってくれて食事の時間がちょっとでも楽しみになるようなごはんを作りたくて、必死でした。
今日の体調はどうだろう、何が食べたいかな、体は何を欲しているだろう…母の体の声に一生懸命耳を澄まし献立を考え丁寧に作っていました。全部美味しく食べられて調子がいいなんて聞くと、もう本当に、涙が出るほど嬉しかったです。


今思えば、直接料理を教わることはほとんどなかったけれど、結局は母からあの一年半で教えてもらったような気がします。


でもやっぱり母の味を再現することはなかなかできません。
煮物も酢の物も唐揚げも何かが違う。何かが足りない。
父の大好きなおはぎも、私には作れないので買ってきました。
毎年私がテレビ見ている間に作っていたおせち料理も
どうやって作っていたのかさっぱりわかりません。


今夜の餃子もちょっと違う。

ああ、中身、もっとちゃんと聞いとけばよかったなぁ。


H叔母から届いたクール便。美味しそうな干物やシラスや昆布、鰯の削り節、新米などなど。「健康づくりのための50の方法」というコピー付。ふふ。ありがとう。そして同封されていた手紙。やさしくてあたたかい手紙。読みながら涙が溢れてとまらなくなってしまった。控えめで ... 続きを読む
H叔母から届いたクール便。
美味しそうな干物やシラスや昆布、鰯の削り節、新米などなど。
「健康づくりのための50の方法」というコピー付。ふふ。ありがとう。

そして同封されていた手紙。
やさしくてあたたかい手紙。
読みながら涙が溢れてとまらなくなってしまった。

控えめで真面目で優しくて芯が強いH叔母。
3姉妹の末っ子で、母親を小学生の時に亡くしている叔母にとって、長女だった私の母は叔母にとっても母同然。母が逝ってしまったとき、とにかくずっと私のことを気遣ってくれていたけれど、自分だってどれだけ深い悲しみの中にいたことか。
長年勤めた会社を定年退職した日、真っ先に母の仏前にやってきて、いただいた大きな花束を供え長い時間母に語りかけていた叔母。
ようやく自分の時間ができたのに、母と一緒にのんびり話ができないこと、一緒にお庭を歩いたりできないこと、一緒に買い物に行ったり旅行に行ったりできないこと、寂しいね。本当に寂しいよ。

色んな想いが溢れてきて、久しぶりに号泣してしまった。
ヒックヒク泣いてる私を見て心配そうに駆け寄ってオロオロしているエフを見たら更に泣けてきた。
もう、まぶたがパンパンに腫れました。秋は涙もろくなってイケマセン。

もうすぐ4回目の母の命日。
おかーさん、私はやさしいひとたちに支えられて元気ですよー。


あれから3年経ちました。3年前の11月5日、私の母は逝ってしまいました。交替で付き添っていた父と叔母と私がたまたま揃った昼下がりの病室でした。いっちゃダメ!お姉ちゃん、お姉ちゃん!と泣き叫ぶ叔母、一言も声が出ず、ただ立ちつくす私、そして、よくがんばった、よくが ... 続きを読む

あれから3年経ちました。

3年前の11月5日、私の母は逝ってしまいました。

交替で付き添っていた父と叔母と私がたまたま揃った昼下がりの病室でした。


いっちゃダメ!お姉ちゃん、お姉ちゃん!と泣き叫ぶ叔母、
一言も声が出ず、ただ立ちつくす私、
そして、
よくがんばった、よくがんばったなぁ…と、静かに繰り返し泣きながら母の肩を抱く父、
お世話になった看護師さんたちも泣いていました。


前日の夜、主治医から「年内もつかどうかわかりません」と告げられました。
今後加速度的に衰えていくであろう体の機能について説明を受け
母がこれ以上苦しいのはヤダな、私のこともわからなくなってしまうのはヤダな、
もっと痩せてしまうのはヤダな、と思いました。

実はその日の午前中、私は病室の外の廊下で倒れました。
叔母と話している最中でした。
体が硬直して手足の震えが止まらず呼吸が苦しくて意識が朦朧としました。
看護師さんや先生が駆けつけて簡易ベッドに寝かされました。
父が私の手をずっとさすっていたのを覚えています。
お母さんが心配するといけないと、眠っていた母にはわからないように静かに手当てを受けました。
このまま死んでしまえば母とずっと一緒にいられるかもなあ、なんてぼんやり思っていました。

多くの母と娘がそうであるように、私と母の間にも、強くて深い絆がありました。
二人にしかわからない特別な空気がありました。
お互い一番の理解者であり味方であり、誰よりも信頼していました。
いくつになっても甘えてました。大好きでした。
母を失うなんて、私にとってこれほど怖いことは他にありません。
できることならどこまでもどこまでも逃げまわりたい…、本当に怖くて怖くて仕方がありませんでした。


数時間寝て回復しました。
倒れるのはその一年半前に兄から母の検査結果を聞いたとき以来でした。

悲しくて苦しくて寂しくて怖くて泣き叫んでも、
やっぱり私はこの世界で生きていくしかありませんでした。


そして翌日、母はスーッと旅立ってしまいました。

先生が言いました、
「お母さんは娘さんにこれ以上心配かけるわけにはいかないと思ったのかもしれませんね」と。
私が倒れたこと、母にはわかっていたのかもしれません。
いつもいつも「ごめんね」「ありがとう」とそばにいる私に繰り返し言っていた優しい母らしい最期でした。


亡くなった母に叔母と二人でお化粧をしました。
肌にハリがあってとても滑らかでした。
栗色の髪もツヤツヤしていました。
ピカピカに輝いて見えました。
美しい母のままでした。



亡くなる二週間ほど前、
夜の病室で二人きり、母の足や手をマッサージしながら他愛のない話をしていた私に、
突然母は言いました。

「もう一度、あなたとお兄ちゃんのお母さんとして生まれてくるからね。」


母の前では絶対泣かないでいた私ですが
このときはあふれる涙をおさえられませんでした。
ヒックヒクとしゃくりあげ、ベッドに顔をうずめていつまでも泣いてしまいました。

翌朝、泣きはらして腫れ上がった私の顔を見て
「赤ちゃんのときとおんなじ顔してる。」と笑って母が言いました。



あれから3年経ちました。

ようやく最近、元気な頃の母が夢に出てくるようになりました。
ずっと、看病していた頃の母ばかり夢に出てきていました。
調子悪いんじゃないか、どこか痛いんじゃないかと
心配で不安で目が覚めることばかりでした。
最近の母はコロコロと元気に笑っています。

昨日話した叔母も同じことを言っていました。


どうしてるかな。
会いたいな。



泣くと今でもこの顔なのか…。

必ずまたこの二人のお母さんとして生まれてきてよ。



今月23日の誕生日で60歳になった叔母、ついに定年を迎えました。叔母は私の亡き母の末の妹。学校を卒業してから41年間、同じ会社に勤めてきました。すごいです。立派です。毎朝6時半には家を出る生活をずっと続けてきました。「仕事が楽しい」なんて言っていたことは ... 続きを読む
今月23日の誕生日で60歳になった叔母、ついに定年を迎えました。
叔母は私の亡き母の末の妹。学校を卒業してから41年間、同じ会社に勤めてきました。
すごいです。立派です。毎朝6時半には家を出る生活をずっと続けてきました。
「仕事が楽しい」なんて言っていたことは一度だってありません。休日はいつもクタクタでした。
真面目で責任感の強い人です。
色白でスラリとしていて若い頃はそれはそれは美人でした。

待ちに待った定年退職の日がやってきました。
本当にお疲れさまでした!

(しかし、会社から引止めにあっているようで年内いっぱい勤務するそう。
無理しないで。身体に気をつけて。)


昨年の従兄弟の結婚式のときの写真。
撮影 by ef夫

早くゆっくりできるといいね。



再会したまみちゃんとお互いの結婚についてもはじめて話し、偶然にも二人とも2年前の秋に結婚式をあげていたことが判明。2003年9月が私たち、10月がまみちゃんたち。さらに二人とも生まれ故郷の富士のふもとであげていた。私たちは朝霧高原で、まみちゃんたちは浅間神社で。 ... 続きを読む
再会したまみちゃんとお互いの結婚についてもはじめて話し、偶然にも二人とも2年前の秋に結婚式をあげていたことが判明。2003年9月が私たち、10月がまみちゃんたち。さらに二人とも生まれ故郷の富士のふもとであげていた。私たちは朝霧高原で、まみちゃんたちは浅間神社で。
小学生の頃、お互いどんな人と結婚するんだろうと思い描き、それから長い長い時が流れて、こんな人と結婚しましたと報告できた喜び。しかもほぼ同時期に近くであげていたなんてなんだか嬉しい。
で、帰宅後まみちゃんにメールした結婚式の写真。せっかくなのでこちらにも公開。

2003年9月6日、朝霧スクエアにて。

ずっと曇り続きだったのにこの日はスッキリ晴れて、気温が高いとあまり顔を出してくれない富士山もふもとから登場。劇的でした。



本当は結婚式をするつもりはなかったのですが、母の病が進行していて容体があまりよくなく、沈む気持ちが少しでも華やぐといいなと思いあげました。母に見せたくて、というよりは、自分のために私が色んなことを我慢しているんじゃないかとずっと気に病んでいた母を少しでも楽に嬉しい気持ちにさせたかったというのが一番です。本当はそれどころじゃないほど深刻で家族も落ち込んでいる時でした。
すでに一人で歩くのが困難な母でしたが、この日は車イスで最高の笑顔を見せてくれました。「今日はウソみたいに調子がいい」とニコニコして言ってくれてました。でもほんとはつらかったんだろうなと思います。
近くにくるであろう母との別れの予感に押しつぶされそうだった私ですが、そんな気持ちも全部吹き飛ぶくらいずっと笑っていられた幸せな一日でした。

この結婚式から2ヶ月後に母は亡くなりましたが、この日は本当に凛とした美しい母でした。立派な私の自慢の母でした。

大急ぎでほとんど準備もできずあり合わせであげた小さな結婚式でしたが、来てくれたみんなが温かくて、父も叔母達も兄家族も義母も義姉家族も友人たちもみんな笑っていて、本当にいい式でした。
写真を見ると悲しくなってしまうのであんまり見ないようにしていたのですが、久しぶりに見たらなんだか晴れやかな温かい気持ちになりました。でもやっぱりちょっと泣けました。